夢野久作ードグラ・マグラ9

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 しかし若林博士は、どこまでも落付いていた。端然として佇立ちょりつしたままスラスラと言葉を続けて行った。その青白い瞳で、静かに私を見下しながら……。「……その事件と申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……何をお隠し申しましょう。只今申しました正木先生の精神科学に関する御研究に就きましては、かく申す私も、久しい以前から御指導を仰いでおりましたので、現に只今でも引続いて『精神科学応用の犯罪』に就いて、研究を重ねている次第で御座いますが……」「……精神科学……応用の犯罪……」「さようで……しかし単にそれだけでは、余りに眼新しい主題テーマで御座いますから、内容がお解かりにならぬかも知れませぬが、斯様かよう申上げましたならば大凡おおよそ、御諒解が出来ましょう。……すなわち私が、斯様な主題テーマに就いて研究を初めました抑々そもそもの動機と申しますのは、正木先生の唱え出された『精神科学』そのものの内容が、あまりに恐怖的な原理、原則にみちみちていることを察知致しましたからで御座います。たとえば、その精神科学の一部門となっております『精神病理学』の中には、一種の暗示作用によって、人間の精神状態を突然、別人のように急変化させ得る……その人間の現在の精神生活を一瞬間に打ち消して、その精神の奥底の深い処に潜在している、何代か前の祖先の性格と入れ換させ得る……といったような戦慄すべき理論と実例が、数限りなく含まれておりますので……しかもその理論と申しますのは、その応用、実験の効果が、飽く迄も科学的に的確、深刻なものがありますにも拘わらず、その作用の説明とか、実行の方法とかいうものは、従来の科学と違いまして極めて平々凡々な……説明の仕様によっては女子供にでも面白可笑おかしく首肯出来る程度のものでありますからして、考えようによりましては、これ程の危険な研究、実験はないので御座います。……もちろんその詳細な内容は遠からず貴方の眼の前に、歴々ありありと展開致して来る事と存じますから、ここには説明致しませぬが……」「……エッ……エッ……そんな恐ろしい研究の内容が……僕の眼の前に……」 若林博士は、いとも荘重にうなずいた。「さようさよう。貴方は、その学説の真理である事を、身を以もって証明されたお方ですから、そうした原理が描きあらわす恐怖、戦慄に対しては一種の免疫になっておいでになりますばかりでなく、近い将来に於て、御自分の過去に関する御記憶を回復されました暁あかつきには、必然的に、この新学理の研究に参加される権利と、資格を持っておいでになる事を自覚される訳で御座いますが、しかし、それ以外の人々に、万一、この秘密の研究の内容が洩もれましたならば、どのような事変が発生するか、全然、予想が出来ないので御座います。……たとえば或る人間の心理の奥底に潜在している一つの恐ろしい遺伝心理を発見して、これに適応した一つの暗示を与える時は、一瞬間にその人間を発狂させる事が出来る。同時にその人間を発狂させた犯人に対する、その人間の記憶力までも消滅させ得るような時代が来たとしましたならば、どうでしょうか。その害毒というものは到底、ノーベル氏が発明しました綿火薬の製造法が、世界の戦争を激化した比では御座いますまい。 ……で御座いますからして私は、本職の法医学の立場から考えまして、将来、このような精神科学の理論が、現代に於ける唯物科学の理論と同様に一般社会の常識として普及されるような事になっては大変である。その時には、現代に於て唯物科学応用の犯罪が横行しているのと同様に、精神科学応用の犯罪が流行するであろう事を、当然の帰結として覚悟しなければならない訳であるが、しかしそうなったら最早もはや、取返しの附けようがないであろう。この精神科学応用の犯罪が実現されるとなれば、昨今の唯物科学応用の犯罪とは違って、殆ど絶対に検察、調査の不可能な犯罪が、世界中の到る処に出現するに相違ない事が、前以て、わかり切っているのでありますからして、とりあえず正木先生の新学説は、絶対に外部に公表されないように注意して頂かねばならぬ。……と同時に、甚だ得手えて勝手な申し分のようでは御座いますが、万一の場合を予想しまして、この種の犯罪の予防方法と、犯罪の検出探索方法とを、出来る限り周到に研究しておかねばならぬ……と考えましたので、久しい以前から正木先生の御指導の下に『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまするテーマの下に、極度の秘密を厳守しつつ、あらゆる方面から調査を進めておったところで御座います。つまるところ正木先生と私と二人の共同の事業といったような恰好で……。 ……ところが、その正木先生と、私と二人の間に如何なる油断が在ったので御座いましょうか……それ程に用心致しておりましたにも拘わらず、いつ、如何なる方法で盗み出したものか、その精神科学の中うちでも最も強烈、深刻な効果を現わす理論を、いとも鮮やかに実地に応用致しました、一つの不可思議な犯罪事件が、当大学から程遠からぬ処で、突然に発生したので御座います。……すなわちその犯罪の外観アウトラインと申しますは、或る富裕な一家の血統に属する数名の男女を、何等の理由も無いままお互い同志に殺し合わせ、又は発狂させ合ってしまったという、残忍冷血、この上もない兇行を中心として構成されているので御座います。……しかも、その兇行の手段が、私どもの研究致しております精神科学と関係を保っております事実が、確認されるようになりました端緒と申しますのは、やはりその富裕な一家の最後の血統に属する一人の温柔おとなしい、頭脳の明晰な青年の身の上に起った事件で御座います。……つまりその青年が、滅びかかっている自分の一家の血統を繋つなぎ止めるべく、自分を恋い慕っている美しい従妹いとこと結婚式を挙げる事になりました、その前の晩の夜半よなか過ぎに、その青年が、思いもかけぬ夢中遊行むちゅうゆうこうを起しまして、その少女を絞殺してしまいました。そうしてその少女の屍体したいを眼の前に横たえながら、冷静な態度で紙を拡げて写生をしていた……という、非常に特異な、不可思議な事実が曝露されまして、大評判になってからの事で御座います……が……同時に、その青年の属する一家の血統を、そんなにまで悲惨な状態に陥れてしまったのが、何の目的であったかという事実とその犯人が何人なんぴとであるかという、この二つの根本問題だけは、今日までも依然として不明のままになっているという……どこまで奇怪、深刻を極めているか判然わからない事件で御座います。……九州の警視庁と呼ばれております福岡県の司法当局も、この事件に限っては徹頭徹尾、無能と同じ道を選んだ形になっておりますので、同時に、正木先生の御援助の下に、全力を挙げて該がい事件の調査に着手致しました私も、今日に到るまで、事件の真相に対して何等の手掛りも掴み得ないまま、五里霧中に彷徨させられているような状態で御座います。

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