夢野久作ードグラ・マグラ2

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 私は身を飜えして寝台の枕元に在る入口の扉ドアに駈け寄った。鍵穴だけがポツンと開いている真鍮の金具に顔を近付けた。けれどもその金具の表面は、私の顔を写さなかった。只、黄色い薄暗い光りを反射するばかりであった。 ……寝台の脚を探しまわった。寝具を引っくり返してみた。着ている着物までも帯を解いて裏返して見たけれども、私の名前は愚おろか、頭文字らしいものすら発見し得なかった。 私は呆然となった。私は依然として未知の世界に居る未知の私であった。私自身にも誰だかわからない私であった。 こう考えているうちに、私は、帯を引きずったまま、無限の空間を、ス――ッと垂直に、どこへか落ちて行くような気がしはじめた。臓腑の底から湧き出して来る戦慄と共に、我を忘れて大声をあげた。 それは金属性を帯びた、突拍子とっぴょうしもない甲高い声であった……が……その声は私に、過去の何事かを思い出させる間もないうちに、四方のコンクリート壁に吸い込まれて、消え失せてしまった。 又叫んだ。……けれども矢張無駄であった。その声が一しきり烈しく波動して、渦巻いて、消え去ったあとには、四つの壁と、三つの窓と、一つの扉が、いよいよ厳粛に静まり返っているばかりである。 又叫ぼうとした。……けれどもその声は、まだ声にならないうちに、咽喉の奥の方へ引返してしまった。叫ぶたんびに深まって行く静寂の恐ろしさ……。 奥歯がガチガチと音を立てはじめた。膝頭ひざがしらが自然とガクガクし出した。それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。 私は、いつの間にか喘あえぎ初めていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の中央まんなかに棒立ちになったまま喘いでいた。 ……ここは監獄か……精神病院か……。 そう思えば思うほど高まる呼吸の音が、凩のように深夜の四壁に反響するのを聞いていた。 そのうちに私は気が遠くなって来た。眼の前がズウ――と真暗くなって来た。そうして棒のように強直ごうちょくした全身に、生汗をビッショリと流したまま仰向あおむけ様ざまにスト――ンと、倒れそうになったので、吾知らず観念の眼を閉じた……と思ったが……又、ハッと機械のように足を踏み直した。両眼をカッと見開いて、寝台の向側の混凝土コンクリート壁を凝視した。 その混凝土壁の向側から、奇妙な声が聞えて来たからであった。 ……それは確かに若い女の声と思われた。けれども、その音調はトテも人間の肉声とは思えないほど嗄しゃがれてしまって、ただ、底悲しい、痛々しい響ひびきばかりが、混凝土の壁を透して来るのであった。「……お兄さま。お兄さま。お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……モウ一度……今のお声を……聞かしてエ――ッ…………」 私は愕然として縮み上った。思わずモウ一度、背後うしろを振り返った。この部屋の中に、私以外の人間が一人も居ない事を承知し抜いていながら……それから又も、その女の声を滲しみ透して来る、コンクリート壁の一部分を、穴のあく程、凝視した。「……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。妾あたしです。お兄様の許嫁いいなずけだった……貴方あなたの未来の妻でした妾……あたしです。あたしです。どうぞ……どうぞ今のお声をモウ一度聞かして……聞かして頂戴……聞かして……聞かしてエ――ッ……お兄様お兄様お兄様お兄様……おにいさまア――ッ……」 私は眼瞼まぶたが痛くなるほど両眼を見開いた。唇をアングリと開いた。その声に吸い付けられるようにヒョロヒョロと二三歩前に出た。そうして両手で下腹をシッカリと押え付けた。そのまま一心に混凝土の壁を白眼にらみ付けた。 それは聞いている者の心臓を虚空に吊るし上げる程のモノスゴイ純情の叫びであった。臓腑をドン底まで凍らせずには措おかないくらいタマラナイ絶体絶命の声であった。……いつから私を呼び初めたかわからぬ……そうしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない真剣な、深い怨みの声であった。それが深夜の混凝土壁の向うから私? を呼びかけているのであった。「……お兄さま……お兄さまお兄さまお兄さま。なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。あたしです、あたしです、あたしですあたしです。お兄さまはお忘れになったのですか。妾ですよ。あたしですよ。お兄様の許嫁いいなずけだった……妾……妾をお忘れになったのですか。……妾はお兄様と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。……それがチャント生き返って……お墓の中から生き返ってここに居るのですよ。幽霊でも何でもありませんよ……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さま。……ナゼ返事をして下さらないのですか……お兄様はあの時の事をお忘れになったのですか……」

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